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笙

  東頭山無量寿院行元寺は、嘉祥2年(849)慈覚大師円仁によって
 伊東大山(現夷隅郡大多喜町伊藤)に草創されました。


   大師帰朝後、東国で最初に開山されたところから、「東頭山」と
 名づけられ、頭山三学院無量寿寺と称して隆盛を極めました。


  しかし、戦火のため焼失したので、平重盛によって荻原の地に移し
 復興されました。のち再度の兵火によって冷泉大納言・二階堂行元
 により再興されました。
 大壇那の名を寺名として、東頭山無量寿院行元寺と改称。


 冷泉大納言の笙(南北朝時代)

    中世以降、房総天台教学の拠点となり、上州世良田長楽寺はじめ、
   京都・鎌倉からの仏教文化の交流が深く、房総文化発信に果すところ
   大でした。

   明応6年(1497)から兵乱で堂字大破しましたが、武田の将土橋守秀
   が復興しました。

    万喜城主土岐氏の祈願寺ともなり、天正14年(1586)6月に現在地に
   移築して偉容を誇るに至ります。

書簡

万喜城潅頂私記(戦国時代)


    この間に多くの学僧など輩出しましたが、なかでも天海大僧正の弟子亮運大僧正(当時厳海)
  は家康や大多喜城主本多忠朝との信頼厚く、上野寛永寺学頭となって家光の師となったことで
  特に知られています。

   江戸時代は御朱印30石、10万石の処遇を受け、上総・安房に末寺96か寺を有する
  大寺院として、関東天台の中核をなし、学問寺および祈願時として発展しました。


      

  

ART

  
    
錦鶏1       錦鶏2

元祖 宮彫師 徳川家御用 高松又八郎邦教   牡丹に錦鶏


幻の名工 高松又八


  高松又八郎邦教(?〜1716)といい、彫工島村俊元の弟子とされ、先祖は足利幕府の側近で、のち   
 花輪(群馬県東村)に移り沼田の真田家に仕えていたといわれます。

  江戸では公儀彫物師、つまり徳川家御用をつとめ、弟子11人が活躍して、根本家・小沢家・石川家・       
 後藤家などに多くの流派を興し、高松家は彫刻界最高の地位にありました。

  主な仕事として江戸城改修工事に、彫り物棟梁として活躍。

  上野寛永寺に徳川4代家綱・5代綱吉の廟、及び芝増上寺に6代家宣の霊廟に彫り物を遺しましたが、
 第二次世界大戦で戦災によって焼失してしまいました。
 したがって幻の名工といわれ、他に作品の存在は確認されていませんでした。


    

豪華絢爛 桃山文化


 当寺院本堂欄間に「宝永3年(1706)彫物大工 高松又八郎邦教」の銘があることから、
 このほど大きな発見となりました。


  躍動する「龍」、ほかに牡丹を中央に雌雄の錦鶏が左右に配された「牡丹に錦鶏」があります。
 そこには岩絵具を駆使し、漆や金箔などかみ合わせた優雅な彩色と、豪華絢爛の桃山文化の
 雰囲気が漂っています。


  


  
   伊八の波

「波を彫らせては天下一」 武志伊八郎信由 
  

波の伊八


    初代伊八は本名を武志伊八郎信由(1751〜1824)といい、現在の鴨川市打墨の生まれです。
   島村丈衛門貞亮の弟子となって、文政7年に73歳で亡くなるまで多くの欄間彫刻などの名作
   を遺しました。

    特に行元寺の彫刻から、「波を彫らせては天下一」と言われて『波の伊八』の異名で知られる
   ようになりました。

   そこには写実的・陰影法・遠近法といった近代手法が駆使されていて、波がまさに崩れんとする
   その一瞬を見事に表現しています。




等随の鷹

等随作   土岐の鷹




等随と北斎


  行元寺にはまた提等琳の弟子である五楽院等随の「土岐の鷹」の杉戸絵が現存します。
 等随とかの葛飾北斎は、共に提等琳に絵を学んだ中です。

  北斎が伊八の彫った波に出会ったことで、かの名作『神奈川沖浪裏図』が生まれます。
 これはやがてゴッホやクローデルの波に転生し、またドビュッシーの交響曲『ラ・メール』(海)の
 誕生となったといわれています。